福勝寺(ひょうたん寺)
豊臣秀吉が当寺を信仰し、出陣の際に武運を祈願するため「ひょうたん(ひょうたんは、種が多いことから子孫繁栄や武勲を数多く得る縁起の良いものとされました)」を奉納していたことに由来するといわれます。そして、秀吉はこのご利益により常に勝利したために寺領を寄進したと伝えられ、この奉納したひょうたんで「千成瓢箪」の旗印を作ったとも伝えられます。また福勝寺の創建以来伝わる伝統的なお守りが、宝珠(ほうしゅ)を2つ重ねた形をしていることから、ひょうたんの形に似ているとして、鎌倉時代ごろからひょうたんをお守りとして用いるようになったとも言われております。
毎月1日と16日のAM5:00~PM5:00まで本堂へお参りができますのでぜひ・・・
また福勝寺にはあの池田屋事件のきっかけとなった古高俊太郎のお墓もあります。
池田屋事件とは幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
古高俊太郎(近江出身)は小道具・桝谷の養子となり桝谷喜右衛門と名乗り、志士達を援助していました。その場所が新選組に知られ捕まります。逮捕された古高は土方歳三の拷問により池田屋に集結していることを自白したとされていましたが、実は古高を奪回するための襲撃計画について、実行するか否かを協議する会合が、池田屋であったことが、『木戸孝允(桂小五郎)日記』に記載されていたことが最近わかってきました。
この池田屋事件をきっかけに長州藩の強硬派が上洛し、あの禁門の変(蛤御門の変)につながり京都中が焼け野原となりました。