光清寺
出水七不思議のひとつ「浮かれ猫」
浮かれネコ絵馬、またの名は真向猫(まむきねこ)と呼ばれるこの絵馬は、宝暦年間、今から約二百余年前。伏見宮家の鎮守、玉照神社の一すみにかかっていた。宝暦七年、伏見宮が江戸に移られたとき、光清寺に移されたと寺史にあります。江戸時代のある夜、猫が絵馬から浮かれ出し、女性の姿に化けて躍り舞い始めた、その噂は市内に広がり、当時島原の芸子などが人気商売のご利益とされ参詣したとされております。明治の頃までは千本通までこの辺りはあんず畑や薮が広がり夜は真っ暗でしたが、江戸時代後期にはここより北は北野神社、愛宕山参詣客めあての茶屋などがあり、そこには琴や三味線をを弾く芸子、遊女がおり、特に遊女のことを隠語で「ネコ」とも呼ばれていました。この「浮かれ猫」は、「浮かれ遊女」という意味を指しているのかかどうかはっきりしたしたことは、定かではありません。
重森三玲が作庭した庭園
昭和期の日本の作庭家、日本庭園史の研究家。
岡山県生まれ。日本美術学校で日本画を学んだのち、東洋大学文学部に入学。大正6年に画家を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年京都へ移り住み、日本庭園を独学で学ぶ。昭和9年の室戸台風で甚大な被害を受けた近畿地方の古庭園を見た重森三玲は、庭園の復元と現状把握のため昭和11年から全国500箇所の様々な時代の名庭を実測調査して、昭和14年「日本庭園史図鑑」26巻を上梓し、昭和51年には息子の重森完途と共に「日本庭園史大系」全33巻(別巻2巻)を完成させ、庭園史研究家として多大な功績を残した。
三玲が作った庭は、枯山水式庭園といい力強い石組みとモダンな苔の地割りが庭園が特徴とされ、代表作に東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。この光清寺の「心月庭」は三玲作として最小の庭かも知れない。奥にある「心和の庭」は普段閉門されていますが、門前から心月庭は見ることができます。