聚楽第堀跡調査
千本商店街 朱雀大路の街 界隈には豊臣秀吉が建てた聚楽第跡が西にあります。
千本通を西に入るとなだらかな坂であったり急な坂が見受けられます。
それはすべて聚楽第跡の堀に当たります。近年京都大学防災研究所がボーリング調査した結果、
下記のような堀跡があったのではないかと発表されました。
聚楽第は、ここ千本通より西に位置する平安京大内裏跡に建造したお城です。
関白になった豊臣秀吉が、政庁兼邸宅として1586年2月から工事を着工し、翌年の1587年9月に完成ました。
聚楽第は四周を濠塁で囲まれていたようで、行幸御殿、天主御殿、その他の屋敷群、茶屋などが建てられ、池と庭園もありました。
その周囲には、黒田官兵衛の邸宅跡、上杉景勝の屋敷跡、千利休の屋敷跡などを示す石碑も周りにあります。
後陽成天皇も聚楽第に行幸し、天正遣欧少年使節は、西洋音楽を披露し、徳川家康・織田信雄ら有力大名に謁見しては忠誠を誓わせました。
宣教師のルイス・フロイスは「絢爛豪華で、深い濠と石壁で取り囲まれ」「聚楽と言う言葉は、快楽と歓喜の集まりを意味する」「内部はすべて金色に輝き(中略)人々は驚嘆せずにはおられなかった」と記しています。
しかし、1591年、鶴松が病死(享年2歳)したため、憔悴した豊臣秀吉は養子・豊臣秀次に聚楽第と関白の位を譲って太閤と称しました。
豊臣秀次は、北の丸を追加するなど、聚楽第の拡大を行っています。
また、太閤秀吉は、伏見城(指月城)を隠居地としましたが、肥前・名護屋城を築いて、朝鮮攻めを開始することになります。
ところが、1593年、大坂城の二の丸にて、淀殿が豊臣秀頼(拾)を産むと、情勢が一変しました。
太閤秀吉は、早々に関白を譲ってしまったのを、深く後悔します。
1595年、突然、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がり、聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近などが参じて誓紙を提出させました。
しかし、更に嫌疑を掛けられて、豊臣秀次は伏見城での弁明も許されず、高野山にて蟄居するよう命じられます。
結果的に、この豊臣秀次事件では、豊臣秀次は切腹したほか、39名の妻子らも全員斬首となり、家臣の多くも連座しました。
豊臣秀吉は更に、秀次の痕跡を消し去るため、近江・八幡山城の破却だけでなく、聚楽第も破壊するように命じました。
聚楽第の堀は埋め戻され、基礎に至るまで徹底的に破却され、周囲の大名邸宅も同時に取り壊されました。
拡大図